誰もが知るビッグメゾン、GUCCIの軌跡を辿る!
言わずと知れた、イタリアを代表するラグジュアリーブランド、GUCCI。
2021年には、ブランド創設100周年を迎え、ブランド発祥の地イタリア・フィレンツェの姉妹都市である京都を舞台に、伝統と創造を讃えるプロジェクト「Gucci In Kyoto」を開催し、話題を呼びました。
今回は、業界屈指の規模を誇る、同ブランドの歴史を紹介していきます。
目次
創設期
GUCCIの歴史は、1921年、イタリア・フィレンツェにオープンした小さなラゲージショップから始まりました。
ブランド創設者のグッチオ・グッチは、1881年にフィレンツェで生まれ、10代でロンドンに渡り、1897年からロンドンの一流ホテルであるザ・サヴォイでポーターとして働き始めます。
イギリス貴族の洗練された文化と接していく中で、グッチオは、ラゲージに興味を持ち、いつか自分の名を冠してラゲージを作ることを夢見て1902年に故郷に戻りました。
そして1921年、フィレンツェのヴィーニャ・ヌオーヴァ通りに、ラゲージを専門に扱う最初のグッチショップをオープン。
上質な素材、品質の良さから人気を集め、以後、数年間で成功を収めていきます。
ブランドの元祖
誰もが知るグッチの象徴である「GG」のモノグラムは、1933年に、品質保証の証としてグッチオのイニシャルを刻印したのが始まり。
世界で初めてデザイナーの名前の入った商品を販売したことが、「ブランドの元祖」と言われる所以です。
1940年代、戦後期の物資不足を乗り越えるための革新的な発想が、GUCCIの不朽の名作の誕生につながりました。
従来の高品質な素材が不足する中、ブランド創設者であるグッチオは、軽量で耐久性のある竹に着目し、日本から輸入した竹で作った、バンブーハンドルを備えたハンドバッグを完成させました。
1953年には、ニューヨークに初のショップをオープンし、イタリア国外への進出を果たします。
その年、新たにシューズのコレクションを発表し、ホースビットがデザインされたローファーが誕生します。
乗馬を楽しむエレガントなライフスタイルにインスピレーションを得たホースビットのモチーフは、その後も様々なアイテムに取り入れられ、バンブーと同じくGUCCIを代表するデザインになりました。
後継争い
登場人物
- グッチオ:GUCCIの創設者
- アルド:グッチオの三男、モノグラムの生みの親
- ルドルフォ:グッチオの五男、映画俳優としての経験を持つ
- ジョルジオ:アルドの長男
- パオロ:アルドの次男、異端児
- ロベルト:アルドの三男
- マウリツィオ:ルドルフォの一人息子、一族最後の社長
- パトリツィア:マウリツィオの妻、後継争いの引き金
繁栄と衰退
ブランド創設者のグッチオには、5人の息子と1人の娘がいました。
モノグラムを作った三男のアルドと映画俳優としての経験を持つ五男のルドルフォがGUCCIを引き継ぎました。
株の配分や経営権を巡って、対立の多かった二人ですが、高いデザインセンスを持ったアルドと俳優時代の人脈を活かし、大物女優たちにGUCCIのアイテムを持たせ、プロモーション面で貢献したルドルフォによってブランドの黄金期を迎えます。
その後、ルドルフォの死をきっかけに、名実ともにGUCCIのトップの座についたアルドには、ジョルジオ、パオロ、ロベルトの三人の息子が、ルドルフォには、一人息子のマウリツィオがいました。
マウリツィオには、パトリツィアというGUCCIの財産を狙う野心の強い妻がおり、彼女が後継争いの引き金となっていきます。
アルドの次男であるパオロは、GUCCIの低価格化を強く提案し、自身の名を冠した「パオロ・グッチ」を独断で立ち上げたことにより、父アルドの怒りを買いGUCCIから追放されてしまいます。
一族の崩壊
虎視眈々とGUCCIのトップの座を狙うパトリツィアは、父親であるアルドに恨みを持つパオロに目をつけ、パオロの持ち株と夫であるマウリツィオの持ち株を合計することで、過半数を獲得しアルドをGUCCIから追い出すことに成功します。
さらにアルドは、社長時代の脱税容疑でマウリツィオ、パオロに告訴され、実刑判決として当時80代だったアルドは収監されてしまい、1990年に失意の中、亡くなりました。
その後、マウリツィオは、社長に就任しますが、ライターやスリッパ、タオルなどのライセンス品に加え、パトリツィアがデザインしたバッグなどの粗悪品により、GUCCIのブランド価値は、地に堕ちました。
そんな経営に不信を持った、アルドの息子たちは、アラブ資本の資産投資会社「インベストコープ」に自身の持ち株を売却し、次いでマウリツィオ自身も株を売却し、一族は、経営から退きました。
結末
終わったかに見えた後継争いは、悪女パトリツィアによって最悪の結末を迎えます。
経営の座を退いたマウリツィオは、パトリツィアがGUCCIの財産やブランドそのものが目当てだったことにようやく気づき、別居し、別の女性と暮らすようになります。
離婚を求められ当初の思惑通りに行かなくなったパトリツィアは、マウリツィオの財産が他の女性のものになるのを恐れ、マフィアを雇い、暗殺を依頼。
1995年3月27日、マウリツィオは朝オフィスに入るところを拳銃で打たれ、亡くなりました。
事件は、暗殺を実行したマフィアと、報酬金額に対して対立したことで発覚。
これらGUCCIの壮絶な後継争いは、レディー・ガガ主演で2021年11月に「ハウス・オブ・グッチ」の名で公開(日本では2022年1月)されました。
ブランドの再生
トム・フォード
アメリカ、テキサス州で生まれたフォードは、世界三大ファッション校の一つ、パーソンズ美術大学を卒業した後、ペリー・エリス、キャシー・ハードウィックでデザイナーを務め、1990年、GUCCIのレディースウェアのデザイナーに就任します。
その後、マウリツィオが退任した一年後の1994年、当時33歳の若さでGUCCIのクリエイティブ・ディレクターに抜擢。
フォードは、色気あるセクシーなスタイルを提案し、マドンナやケイト・ウィンスレットらが着用したことで、世界中のセレブを中心に話題になりました。
また、店舗デザインや広告、販売員の服装を統一することで、ブランドの世界観を定着させることに成功。
2000年前後の、ブランド買収合戦の最中、GUCCIは、フランスの流通大手PPR社(現ケリング・グループ)に買収され、豊富な資金と経営手腕によって急速に事業を拡大していきます。
これらの功績が認められ2001年、フォードは、イブ・サンローラン・リブ・ゴーシュのデザイナーにも就任し、GUCCIと兼任しその才能を遺憾無く発揮し、地に堕ちたブランド価値を引き上げました。
しかし、2004年PPR社とブランドコンセプトの方針で対立し、10年間にわたって支え続けたGUCCIを去ります。
アレッサンドラ・ファッキネッティとジョン・レイ
アレッサンドラ・ファッキネッティ。
ジョン・レイ。
2004年5月より、レディースウェアラインのクリエイティブ・ディレクターにファッキネッティ、メンズウェアラインには、レイが就任しました。
ファッキネッティは、2000年からデザインディレクターとして、フォードの右腕として活躍し、後任として期待されていましたが、2005年、方針をめぐって対立し、一年でブランドを去ります。
その後、2006年にレイもクリエイティブ・ディレクターを辞任し、わずか2年の間にディレクターが入れ替わります。
フリーダ・ジャンニーニ
バッグやアクセサリーのデザイナーを務めていたジャンニーニは、二人のディレクターの退任を受け、レディース・メンズ・アクセサリーライン全てを統括することになります。
ジャンニーニのエレガントでセクシーなコレクションは、業界を中心に高い評価を受けました。
また、端正な顔立ちと抜群のスタイルを併せ持った彼女が公の場で見せるスタイリングは、たびたび話題になりました。
香水、コスメの発表、中国市場の拡大などの多くの功績を残し、2015年に退任します。
アレッサンドロ・ミケーレ
イタリア・ローマ郊外で生まれたミケーレは、彫刻芸術が趣味の父と、映画好きな母に育てられ、芸術や映画の世界に慣れ親しんだ幼少期を過ごします。
10代の頃には、音楽に熱中し、必然的にファッションにも興味を持ったミケーレは、ローマのファッションアカデミーに入学し、コスチュームデザインとファッションデザインを学びました。
1994年、イタリアのニットブランドであるレ・コパンでキャリアをスタート。
三年後、あのカール・ラガーフェルトからのオファーを受け、FENDIへ移籍し、当時在籍していたジャンニーニと共に、レザーグッズを中心にデザイナーとして活躍します。
2002年には、フォードからも熱烈なオファーを受け、GUCCIに移籍し、バッグデザイナーとしてブランドを支えました。
その後、2006年に、レザーグッズのディレクターに就任、2011年には、ジャンニーニの右腕として活躍します。
デザインチームの中心として発表した2015秋冬コレクションは、当時のCEO、マルコ・ビッザーリの要求により、わずか一週間で作成されました。
ショーピースの準備や構成、モデルのキャスティングなど不可能だと思われた課題を見事にこなし、ショーを大成功に収めました。
これらの功績が認められたミケーレは、正式にGUCCIのクリエイティブ・ディレクターに就任します。
ミケーレの独創的でエネルギッシュなデザインは、これまでのGUCCIのイメージを大きく覆し、たちまち世のファッショニスタを虜に。
また、蜂や虎、蛇などの動植物をモチーフにしたアイテムは、新たなGUCCIのアイコンとして認知されていきました。
ファッション業界で「ジェンダーレス」を広めた一人としても知られ、メンズのデザインにフリルやレースを用い、男女のモデルが混合した性別の壁を超えたショーを発表し、話題を呼びました。
他にも元プロスノーボーダーのトレバー・アンドリューや伝説的テーラーのダッパー・ダン、誰もが知る日本のアニメ、ドラえもんなどとの予想外のコラボレーションを多数発表し、多くのファンを獲得していきました。
GUCCIに革命をもたらしたミケーレでしたが、デザインの大幅な変更を求められたことが原因で、2022年にブランドを去ります。
その後、2024年、ヴァレンティノのクリエイティブ・ディレクターに就任することが発表されました。
これからのGUCCI
サバト・デ・サルノ
2023年、ミケーレの後任としてGUCCIのクリエイティブ・ディレクターに抜擢されたのは、PRADA、DOLCE&GABBANA、VALENTINOといった名だたるメゾンでの経験を持つ、サバト・デ・サルノ(当時40歳)。
記念すべきデビューコレクションで、サバトが掲げたテーマは、「Ancora(アンコーラ)」。
サバト自身がGUCCIというブランドに抱いた想いを巡らせたコレクションには、ニュージーンズのハニやライアン・ゴズリング、ケンダル・ジェンナーなどの豪華なゲストがフロントロウに登場し、注目を集めました。
肝心のコレクションでは、ミケーレ期とは対極をなす、洗練されたミニマルなルックで、GUCCIのこれからの方向性を明確に示しました。
洗練されたミニマルなデザイン、ブランドの本質にフォーカスを当てた、サバトの描くGUCCIの未来に期待していきたいですね。
まとめ
今回は、誰もが知るラグジュアリーブランド「GUCCI」の歴史を紹介しました。
エリートデザイナーの率いる、新生GUCCIにこれからも注目していきたいですね。
では、また!