PRADAの歴史と魅力
イタリア生まれのラグジュアリーブランド、PRADA(プラダ)。
直近で行われた24awコレクションには、aespaのカリナや俳優のイ・ジェウク、日本からはアンバサダーを務める坂口健太郎が参加し、フロントロウを盛り上げました。
また、TWICEのサナや韓国発のアイドルグループENHYPENがアンバサダーに就任したことで、アジアを中心に注目を集めています。
今回は、絶大な人気を誇るプラダがどのようにして誕生し、発展していったのかブランド創設期から順に紹介していきます。
ブランドの誕生
1913年、兄のマリオ・プラダと弟のマルティーノ・プラダによってミラノの中心にあるガレリア・ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に開業された皮革製品店がブランドの始まり。
フラテッリ・プラダ(フラテッリ:イタリア語で兄弟を指す)と名付けられたプラダ1号店では、クロコダイルや象、セイウチなどの豪華な皮革を使用し、スーツケースやバッグ、トランクなどが制作されました。
その優れたデザインと品質の高さが評価され、1919年、イタリア王室の御用達に。
その証として当時、王家の中核を担っていたサヴォイア家の紋章から十字とロープの印を使用することを許可され、プラダを代表するロゴデザインが誕生しました。
発展と低迷期
王室御用達に認定されたことで、セレブリティを中心に人気を集め、プラダ兄弟は、さらなる事業拡大を図り、ミラノのマンゾーニ通りに2号店をオープンしました。
しかし、第一次世界大戦から第二次世界大戦の戦時中であり、派手な旅行カバンやスーツケースは、時代にそぐわないものとして需要を失っていきます。
その影響を受け、開店予定だった3号店は中止となり、2号店は閉店、1号店は爆撃の戦火に巻き込まれ、ブランドの低迷期を迎えます。
時を同じくして、弟のマルティーノが政治問題を機にプラダから去り、更に兄のマリオは1958年に、亡くなってしまいます。
後を継いだマリオの娘のナンザとルイーザは、ブランドのターゲット層を戦後復興の中心となっていた中流階級に変更し、事業を展開していきました。
しかし、戦後期ということもあり、業績は低迷していき、ブランドとして苦しい時期が続きます。
救世主登場
ブランドを低迷期から救ったのは、ブランド創設者であるマリオ・プラダの孫にあたるミウッチャ・プラダでした。
1949年、プラダ家に生まれたミウッチャは、工房で修行をする傍ら、ミラノ大学で政治学を専攻し、共産党の一員として女性の人権運動に参加していました。
転機となったのは、1977年当時、プラダのコピー品を作っていたパトリツィオ・ベルテッリとの出会いです。
コピー品の品質の高さとベルテッリの経営手腕に目をつけたミウッチャは、彼の所有する皮革製品社とライセンス契約を結びました。
そして、1978年、ブルジョワ階級に育った自身の境遇に反抗しつつも、母親からプラダを受け継ぎ、その舵取りを担うことになります。
1984年には、ベルテッリと出会った当初から構想していたナイロン生地のバッグパックを発売。
発売当初は、ヒット作とは言えないほどの売り上げでしたが、高級ブランドが安い日用品と考えられていたナイロン製品を作ったのは、画期的な出来事でした。
軽く、耐水性、耐久性を兼ね備えた実用的なナイロン生地のアイテムは、現代女性の合理思考に合い、徐々に人気を集めていきます。
1987年、これまでビジネスパートナーであったベルテッリと私生活でもパートナーに。
ファッションの専門的な教育は受けず、ドローイングすら描けなかったミウッチャでしたが、確かな教養と裏打ちされた直感をもとに1988年、ウィメンズのプレタポルテをスタート。
事業拡大
ミウッチャとベルテッリの手腕によって順調に業績を伸ばしていたプラダは、1990年初期、海外展開の先駆けとして、中国、アメリカ、日本の市場に参入。
1993年は、プラダにとって重要な一年になりました。
これまでウィメンズのみだったプレタポルテをメンズでもスタートし、初のファッションショーをミラノで開催。
更に、ミウッチャとベルテッリによってプラダ財団が創設され、国際的な公共機関や美術館・博物館との継続的な交流、現代アーティストとのコラボレーションを実施。
この年の最も大きな出来事となったのが、プラダの姉妹ブランドmiumiuの誕生です。
モードで洗練されたプラダに対し、miumiuは力強く、飾らない、時に挑発的な個性を特徴にし、女性の精神を表現するブランドとして幅広い年齢層から人気を獲得。
躍進と事業縮小
90年代後半、LVMHなどの巨大コングロマリットによって行われたブランド買収合戦の最中、プラダはイタリア初のコングロマリットとして、市場で奮闘しました。
その結果、当時は、ヘルムートラング、ジルサンダー、チャーチを傘下に置き、1999年低迷期に陥っていたフェンディの買収に成功し、イタリアを代表するコングロマリットに成長を遂げます。
しかし、2000年代に入ると、ITバブルの崩壊、世界中を震撼させた9.11事件の影響により、プラダの買収戦略は失敗に終わり、フェンディ、ヘルムートラング、ジルサンダーを続けて売却、事業の縮小を余儀なくされました。
人気を獲得したコレクション
2006年には、ジャーナリスト志望の主人公が悪魔のような上司の元で奮闘する姿を描いた「プラダを着た悪魔」が映画化され、話題を呼びました。
2010年代は、数々の名コレクションが誕生。
2012秋冬コレクションでは、権力や虚栄心、力強さを象徴したこれまでにない男性的なエレガンスを表現。
鮮やかな赤に幾何学模様がデザインされた巨大なカーペットをゲイリー・オールドマン、エイドリアン・ブロディ、ティム・ロス、ウィレム・デフォーら豪華俳優がモデルとして登場し、アイコニックなアイテムも含め人気を集めました。
ミウッチャによって独特な色使いで発表されたリゾートスタイルが印象的な2014春夏コレクション。
長袖のアロハシャツ、オープンカラーのシャツブルゾン、半袖のリゾート風のニットは、全てワインレッドやターコイズブルー、ブラウン、ブラックを基調としたダークな色使いで、世界の様々な問題に対するミウッチャなりのメッセージの込められたアイテムに。
これからのプラダ
2020年、ジルサンダー、ディオール、カルバン・クラインなどのビッグメゾンでディレクターを務めた経験を持つラフ・シモンズが共同クリエイティブディレクターに就任することが発表されました。
ミウッチャとラフ共同での初のコレクションとなった2021年春夏は、インクルージョンとサステナビリティがキーワード。
監視カメラがシャンデリアのように飾られたショーのセットについてミウッチャは、「ステイホームの期間中、テクノロジーの重要性や、それが私たちに与える影響、またある意味テクノロジーは私たち自身の延長だということを実感しました。そこで、テクノロジーと女性との関係をテーマの一つにとらえたのです。」と語りました。
ラフらしさとプラダらしさを併せ持ったコレクションに。
2022年になるとイタリアの大手アイウェアメーカー「ルックスオティカ」前会長のアンドレア・グエラ氏を新たな最高経営責任者に推挙し、ミウッチャとベルテッリが共同CEOを退くことが発表されました。
ミウッチャとベルテッリは、共同声明にて、「これは、プラダグループの進化にさらに貢献し、グループの将来のリーダーであるロレンツォ・ベルテッリをスムーズに後継者とするための基本的なステップです。」とコメントし、将来的には、長男であるロレンツォが次期CEOに就任することを発表しました。
まとめ
今回は、イタリアを代表するラグジュアリーブランド、プラダの歴史について紹介しました。
創設者の時代から黄金期、低迷期を経て、トレンドセッターにまで成長を遂げました。
成長の立役者で今のファッション業界には欠かせない人物として知られるミウッチャは、2024年3月時点で74歳、ラフを共同ディレクターに迎え、彼女のデザイナーとしてのキャリアの終わりも残念ながら近づいてきました。
これまでファッション界に多大なる功績を残したミウッチャとこの先プラダのデザイナーを引き継いでいくであろうラフのコレクションにこれからも注目していきたいですね。
では、また!